矢作川

川名が語るふるさとの歴史

地名の由来守山の沿革

2016.05.30

<名古屋市>

地勢
 矢田川と庄内川に挟まれた丘陵地と低地。

地名由来伝
 地名の由来は「地名考」が「続紀に和同三年正月初て守山戸を充て諸山の木を伐ことを禁むとあれば爰も古へ山守を置れたる所歟」と説くが、丘陵や山林の森山のこととの伝承もあって不詳。

名所旧跡
 守山区守山の字市場、宝勝寺一帯に守山城跡があり、城跡を示す石碑がある(城郭大系9)。

地名の変遷
 古くは山田荘に属していた。戦国期は、はじめ尾張国山田郡守山、のち春日部郡守山。江戸期は春日井郡守山村。明治22年二城村の大字となる。
 明治22年瀬古村と孝心村合併し、高間村となる。明治22年、金屋坊・川・守山・大永寺・大森垣外の5ヶ村が合併して二城村成立。明治39年、東春日井郡守山町。高間村・二城村・小幡村・大森村が合併。小幡村が小幡となるほかは合併各村の大字を継承して10大字を編成。
 昭和19年、小幡から廿軒家、同22年大森垣外から牛牧が起立し12大字となる。昭和16年名古屋市北区、同28年旭町と境界変更。同29年守山市の一部となり、町制時の12大字は同市の大字に継承。役場を守山に設置。町村の大字を継承して16大字を編成。市役所は、旧)守山町役場をあて、志段味支所を置く。昭和38年、名古屋市守山区となり、当市の16大字は同市同区の大字に継承。昭和43年金屋1~2丁目・守牧町・金屋1~2丁目、同48年松坂町・城土町・川上町・白沢町・高島町、同53年西川原町・鳥神町・新守町・永森町・大永寺町・村前町・村合町・川村町・森宮町・川北町・川宮町、同57年天子田1~4丁目・原境町・向台1~3丁目、同59年今尻町・大森1~5丁目・弁天が丘・元郷1~2丁目・八剣1~2丁目・藪田町・脇田町、同60年小幡1~5丁目・茶臼前、同61年本地が丘、同62年森孝1~4丁目・四軒家1~2丁目が起立。同62年現在53か町16大字を数える。

寺社
 神社は白山社・浅間2社・八幡社・山神2社・洲原社。
 寺院は天台宗白山寺、臨済宗長母寺・見性寺(見寿庵)、曹洞宗宝勝寺・竜雲寺、浄土宗誓願寺。のち明治10年頃、白山寺・見性寺は廃寺、竜雲寺は宝勝寺に合併した。明治9年の地租改正に伴い、それまで入り組んでいた村境も明瞭になったが、この時長母寺は矢田村に属することになった。

記録
 元禄10年徳川光友の長母寺宝篋印塔参詣の際には大森村から橋板を借りて仮橋を架けた。
 寛政5年、守山村宮社御除地書上帳によれば、たびたびの水難により枝郷秦江は往古23軒程が今7軒になり、枝郷大門の11軒は明和4年に全て流失し、守山城の下に移転したという。この明和4年の水害で長母寺が本村から切り離されたほか、被害は350石余にのぼり、守山村の給人13人全てが影響をうけた。
 明治8年宝勝寺に守山学校開校。明治30年~大正14年まで歩兵33連隊、昭和3~20年まで騎兵3連隊があった。明治38年開通の瀬戸自動鉄道は翌39年電化され、町内に昭和初年7駅があった。また連隊跡には米軍が駐留していたが、昭和32年に撤収、同34年から陸上自衛隊が移駐。同年の伊勢湾台風では、死者15名、家屋の全半壊1,976戸、田畑冠水350haの被害があった。昭和46年、区役所小幡へ新築移転、跡地に守山図書館を新設。『角川日本地名大辞典』抜粋