矢作川

川名が語るふるさとの歴史

川名の由来堀川 ほりかわ

2016.05.30

 堀川は、愛知県名古屋市を流れる庄内川水系の一級河川。
 堀川は、名古屋市の中心部を南北に貫く川で、庄内川より分派し、矢田川を暗きょで横断し、名古屋城の西から市の中心部である納屋橋地区を通り、熱田台地の西に沿って南下し、名古屋港へ注ぐ延長16.2kmの河川で、このうち、名古屋港から猿投橋の落差工(段差)までは、潮の満干の影響を受ける感潮区間。
 名古屋市守山区にて庄内川から取水する形で発祥し、矢田川を地下水路で伏越したのち名古屋城のある南西方向へ流れる。名古屋城を北側から西側に回りこみ、その後名古屋市中心部を南方向へ流れ伊勢湾(名古屋港)に注ぐ。流域面積:52.5 km²、水源:名古屋市、河口:伊勢湾、延長:16.2 km。

名古屋城と堀川
 名古屋城ができる前のこの地方の中心地は清須(清洲)であったが、清須城は手狭で、水攻めへの弱さが懸念されたことから、徳川家康は慶長15(1610)年に名古屋台地の北西端に名古屋城を建設し、清須から町ぐるみで移転した。慶長18(1613)年には、この「清須越し」がほぼ完了し、名古屋の町は誕生した。
 堀川は、築城と同じ慶長15(1610)年に、福島左衛門大夫正則により、海に面していた熱田と名古屋城下を結ぶ川が名古屋台地の西に沿って開削された。名古屋城西の幅下から熱田まで長さ1里半余り(約6km)、幅12から48間(約22から87m)の堀川が誕生した。堀留(上流端)は、名古屋城の外堀に設けられた辰の口(排水口)と水路でつながり、お堀の水が堀川に流入していた。
 堀川は名古屋城下の住民が必要とする大量の物資輸送の動脈で、「尾張志」には「諸国の商船、米穀、炭、薪、竹木、器財、魚菜の類、諸雑物を運送するに此川を出入りし、府下第一の用川也」と記載されている。沿川には多くの豪商が住まいを構えて、川沿いには荷物を保管する蔵が堀川に向かって建てられていた。
 また、尾張藩領であった木曽からは良質のヒノキ等が木曽川を下り伊勢湾を横切り堀川をさかのぼって城下に搬入された。当時の河口近くには広大な貯木場が設けられ、上流の市街地には木材を扱う商人等が住み、元木材町や木挽町(現:中区丸の内、錦、栄一丁目)などの地名を残した。

黒川 くろかわ
 犬山方面と名古屋の舟運等のため、明治10(1877)年に黒川開削、明治16(1883)年に新木津用水が改修された。従来は、木曽川経由で7日かかって輸送されていたのがわずか4時間に短縮され、明治19(1886)年から大正13(1924)年までは、愛船株式会社による運送事業が行われた。
 改修は愛知県技師の黒川治愿(1847~1897)によって、実施されたことから堀川の朝日橋から矢田川手前の黒川樋門の間の区間は通称として「黒川」と呼ばれている。また、1976年まで名鉄瀬戸線に「堀川駅」という堀川に面したターミナル駅があったのは、愛知県瀬戸市で生産された瀬戸焼を、堀川を通じて輸出するためであった。
 名古屋城の堀からは辰之口水道大樋(現在の朝日橋と大幸橋の間)から堀川に放流されるようになり、これにより堀川に河口方面への流れが生じるようになったとされる。黒川開削に際して、御用水についても黒川と同じ庄内用水頭首工からの取水に切り替えられ、以後黒川と御用水は名古屋城近辺まで並行して流れる形となっていたが、昭和47(1972)年に御用水は黒川に統合される形で埋め立てが行われている。また、埋め立て後は1974年に御用水跡街園として整備されている。
 昭和7(1932)年に中川運河が堀川とつながり、松重閘門により水位が違う両河川を行き来できるようになった。これにより堀川中下流部の舟運の混雑が緩和されたが、トラック輸送の発達とともに利用が減り、昭和43(1968)年を最後に閘門は閉鎖され、昭和51(1976)年に使用廃止と保存が決定された。
 平成8(1996)年に宮の渡し、平成9(1997)年に名古屋国際会議場、平成13(2001)年に納屋橋、平成17(2005)年に朝日橋の船着場が整備された。都心と港を直接結ぶ交通路として、またユニークな遊覧の場所として、今後さらに利用が高まり沿川地域の活性化がはかられることが期待されている。

庄内用水
 現在の庄内用水は、堀川と同じく庄内用水頭首工にその端を発し、矢田川伏越後に堀川と分岐して名古屋市北区、西区、中村区、中川区、港区を流れる。これらの流域では笈瀬川・惣兵衛川・米野川という名で呼ばれることもある。

松重閘門 まつしげこうもん
 松重閘門は、堀川と中川運河を結ぶ地点(松重橋 – 山王橋間)に設けられた閘門。名古屋市中川区山王にある。連絡を行うにあたり堀川と中川運河の水位に差があることから、パナマ運河と同様の閘門による水位調整を行っていた。1932年より運用を開始し堀川を用いた水運に用いられてきたが、その後内陸部の運輸の主体が自動車に移行し通行船舶量が減少したことから、1968年に閉鎖、1976年に公用廃止となり閘門間の水路は埋め立てられた。閘門の象徴である2対4本の尖塔は保存されている。

新堀川 しんほりかわ
 新堀川は、愛知県名古屋市を流れる一級河川である。合流する堀川が庄内川より取水しているため、新堀川も庄内川水系に属する。
 愛知県名古屋市中区にある堀留水処理センターを起点として、精進川低地に沿って市内を南流し、南区明治にて堀川へと注ぐ。流路は中区、昭和区、熱田区、瑞穂区、南区の境となっている。

精進川から新堀川へ
 かつて今池辺りを源流として名古屋台地を流れていた精進川(昔、熱田神宮の神職が6月の名越の祓の際にこの川でみそぎをしたことからこの名が付けられたと言われる)は多くの湧水による豊富な水量を持っていたが、曲がりくねった川筋が洪水の原因ともなっていた。この洪水の発生を防ぐとともに、船舶の航行と下水処理水の受け皿とするため、明治16(1883)年に運河として改修する計画が建てられ、明治43(1910)年に現在の川筋に付け替えられた。新堀川という名称はこの付け替えの際に付けられたものである。なお、元の精進川は大正15(1926)年に埋め立てられ、消滅している。

中川運河
 中川運河は、愛知県名古屋市港区の名古屋港から、中川区の旧国鉄笹島貨物駅(1986年11月1日廃止)の間を結ぶために掘られた運河、昭和初期から30年代頃まで、名古屋地域における中心的な水上輸送路として活用された。
 従来この付近には中川(笈瀬川)と呼ばれる川が流れており、悪水の排出がなされていた。名古屋城築城の際には石垣に使う石の輸送はそれを使って行ったことがあったとされる。

新木津用水
 新木津用水は、愛知県丹羽郡大口町を流れる合瀬川(木津用水、または古木津用水)を取水源とする農業用水である。
 愛知県丹羽郡大口町中小口にて合瀬川(木津用水)より分岐する。大口町南部で、巾下川が交差。犬山市を経て、小牧市北部で3つの川(後川、佐久間川、薬師川)が合流し、原川が分かれる。小牧市中部で外堀川が分かれた後、小牧市南部で大山川と交差する。さらに、春日井市北部で西行堂川と交差した後、田楽を経て朝宮で八田川に合流し、庄内川に至っている。
 春日井の西部に「春日井原」という原野が広がっていた。春日井原の水不足を補うために用水を作る計画が立てられ、それが、藩営事業として1664年に完成したのが新木津用水である。
 この時期春日井原では多くの開墾が行われ、如意申村の人が如意申新田を開墾した(「春日井の近代史話」)。
 名称の由来は、1650年に完成した木津用水(合瀬川)と区別するために、木津用水を「古木津用水(ここっつようすい,こっつようすい)」、こちらを「新木津用水」とした。