矢作川

川名が語るふるさとの歴史

◆愛知の疏水矢作川水系(矢作川用水・矢作川総合用水(北部・南部))

2019.03.31

 矢作川水系では、「明治用水」及び「枝下用水」をシリーズ Vol.3 (No.2)、平成28年11月発行にて掲載しました。
 今回は、同水系の矢作川用水及び矢作川総合用水の北部地域と南部地域について紹介します。

 矢作川下流域にある矢作川用水は西暦1603(慶長8)年に開削された占部(うらべ)用水が最初の用水と言われています。
 それまでは矢作川の上流から流されてくる土砂により河床が上昇して氾濫し、度重なる水害のため矢作川は農業用水としてはあまり利用されませんでした。
 しかし、1600(天正18)年頃になると現在の岡崎市矢作町から安城市木戸町にかけて矢作川の築堤工事が完了し、矢作川の流れも落ち着いてきました。こうして矢作川の流れが安定すると、農業の好適地となる肥沃な土壌のため新田開発や用水の開削が始まったのです。特に河口部を始めとして三河湾に面した地域では新田開発が江戸時代を通じて盛んに行われ、現在の海岸線が形成されたのは明治時代の後半のことです。この新田開発とともに農業用水の開削事業も飛躍的に進んでいきます。

 一方、矢作川総合用水の北部地域は、矢作川の上中流域(豊田市北部)に位置しており、また、南部地域も幸田、吉良、幡豆の丘陵地にあって、いずれも河川から農業用の水路を引くことが困難でありました。両地域の水田では渓流や小さなため池に、畑は天水に依存するしかない不安定な農業用水で営農をしていました。

 1965(昭和40)年に入ると、多目的の矢作ダム建設(1971年完成)に伴い当地域でも農地造成、区画整理、用排水路の整備等を進めるため矢作川からの安定した用水確保が要請され、矢作ダムを水源とした水利条件の改善と老朽化が著しい明治用水幹線水路の改修を行う矢作川総合農業水利事業が1970(昭和45)年に着工します。
 北部及び南部地域の農業は、日本の高度経済成長期を契機に発展したといえるでしょう。

 本書では、矢作川用水及び矢作川総合用水(北部・南部)、それぞれ地域ごとに水利事業の変遷を記述しています。既刊と併せ矢作川水系における農業水利の歴史の面白さが伝われば幸いです。

 

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細川頭首工

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勘八水管橋

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矢作川用水・矢作川総合用水の流域図