その他

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<小牧市>

 小牧市三ツ淵にある寺。曹洞宗。山号は青松山。本尊は三世如来。応永元年青生直正が中島郡下津の伝法寺の廃跡に天鷹祖祐を住持として開創。勧請開山は通幻寂霊。同5年足利義満から寺領寄進をうけたという。文安5年3月2日に放火で全焼したが、足利義政の外護により5年間で復旧したという。天文9年7月3日の足利義晴御内書写で「春日井郡宇福寺村并丹羽郡伝法寺村・同北島村以上百五拾貫文之事、并寺中門前屋敷」を寄進された(正眼寺文書/一宮市史資料編6)。永禄5年3月2日に織田信長より「正眼寺無縁所如前々、并諸寄進等之儀、聊不可有相違者也」と寺領を安堵され、天正18年9月9日には豊臣秀次より「当寺領分伝法寺之内を以弐拾七貫文」とされ、文禄4年8月3日の秀吉朱印状で「下津村之内、正眼寺門前四拾石五斗」を寄進された。慶長6年7月9日の松平忠吉朱印状で「春日井郡宇福寺村之内」40石5斗と寺中門前屋敷とされ、以後尾張藩に引き継がれた。元和年間に門前道路に松を植え、青生山を青松山と改号。寛永6年尾張国曹洞宗の僧録とされた。下津は水害を受けやすいため、元禄2年に慈眼寺旧跡の現在地へ移転。「尾州愛知郡熱田宮白鳥山宝持禅寺……右此鐘者、雖被置於折津正眼寺……当寺江被贈焉、于時慶長戊戌十月二十一日」という慶長3年の銘文がある(古鐘銘集成)。


<小牧市>

 小牧市久保一色にある神社。旧郷社。祭神は玉姫命・御歳神。創建年代などは不詳。「尾張志」以後当社を「延喜式」神名帳丹羽郡の田県神社、「尾張国内神名牒」(大日料4‐1)の同郡従三位上「田方天神」に比定するが、現在地は近世の春日井郡であり、比定の根拠に欠けるところがある。小正月の田遊びとして旧暦1月15日に行われていた豊年祭は、現在は3月15日に行われ、巨大な男根をつけた人形の渡御することで有名。近世には社僧久保寺が神事を行い、行列も同寺から出発したが、神仏分離後は村内の熊野神社・神明社から1年交代で出発するようになった。


<春日井市・小牧市>

 濃尾平野北東部、春日井市田楽町・下原町・東野町、小牧市下末、小牧山南麓に分布する。段丘面の高度は34~36mで、下位の小牧面との比高は7~8m。地層は、熱田層上部(または木曽谷層)で、砂層中に御岳火山の浮石が含まれる。田楽町の熱田層は、厚さ約6mの粗粒砂層を主とし、下部に礫層がある。段丘面はかつて桑畑として開かれたが、第2次大戦後は普通畑や桃などの果樹園に利用され、現在は宅地化が進む。


<小牧市>

 小牧市岩崎、岩崎山西端の熊野神社境内にある岩。県天然記念物。「尾張名所図会」に「山上巨岩多く、奇峻目を驚かせり」とある。五枚岩の名は、この岩の前で護摩をたきながら除災受福の祈願をしたことに由来するという説があるが未詳。この岩は岩崎山の岩質である花崗岩が風化し、5枚に分かれたもので、岩の色は灰色にみえる。1枚の岩の大きさは、縦約5m・横約10m・厚さ約1m。


<小牧市>

 小牧市小木に所在。標高10mの洪積台地低位面に立地し、西側に尾張平野沖積地を望む。10基以上からなる古墳群であったが、現在は復元全長62m、前方部幅22m、後円部径34mの宇都宮神社古墳と径40mの浄音寺山古墳、復元径約30mの甲屋敷古墳が残るのみである。宇都宮神社古墳は埴輪・段築を持たず、周濠・外堤の存在を推測させる凹地と高まりを残す。前方後方墳の可能性もある。明治末年、後円部上の本殿建築に伴い、割石小口積竪穴式石室が検出され、飴製三角縁神獣鏡2面が出土した。1面は岐阜県長塚古墳・佐賀県谷口古墳出土鏡と同笵。甲屋敷古墳から三角縁神獣鏡、また、出土古墳不明であるがほかに内行花文鏡が出土しており、5世紀前後における有力な政治勢力の存在を示している。


<小牧市>

 中世の城郭。小牧市小牧字下町に所在した平城。最初織田与四郎が在城し、永禄6年織田信長が小牧城に居城を移すと丹羽長秀の屋敷になった(小牧町史)。天正12年の小牧・長久手の戦では織田・徳川連合軍の砦として改修され、松平家忠・西郷家員などが守備した。同年の織田信雄と羽柴秀吉の講和条件に「新儀ニ出来候城々、敵味方破却事」とあり(伊木文書/一宮市史資料編6)、当砦もこのとき廃された。天正12年の遺構である堀・土塁・天守台跡などが、大正期頃まであった。


<小牧市>

 中世の城郭。小牧市上末に所在した平山城。上陶城とも書かれ、森下城とも呼ばれる。室町期の末に落合勝正が創築し、落合安親が継いだと伝える。天正12年の小牧・長久手の戦のとき、安親は子の庄九郎とともに羽柴秀吉方に属し、岡崎攻めに向かった池田恒興・森長可の道案内を勤めた。城はその後廃城となる。城址は、安親が創建した陶昌院の北で、堀の一部が地表面観察される。


<小牧市>

 小牧市街の西、木津用水沿いに位置する山。標高85.9m。尾張平野に位置しているため、好天時には頂上から名古屋市をはじめとして同平野の景観を一望できる。山名は、古く小牧山は湖沼地帯に囲まれ、西麓近くまで海で、舟人がこの山を望んで帆を巻いたので帆巻山と呼ばれ、転じて小牧山になったとする説や、中世には遠くから駒を集め、馬市を開いたところから駒来山と呼ばれ、それが転じたとする説などがある。
 戦国期は軍事上の要地で、永禄6年の織田信長の美濃攻めの際は清洲から小牧山へ本拠が移されている。また、天正12年の小牧・長久手の戦では、徳川家康が本拠地を置いた。
 地質は古生層(秩父古生層)からなる。岩質は大部分がチャートで、部分的に砂岩・粘板岩がみられる。山の西・北西上部には自然林に近い状態が残り、タブノキ・オガタマノキの大木や、暖帯海洋性の植物が多くみられ、縄文海の海進を裏付ける貴重な資料になるという。観音洞にはクスノキ・オガタマノキの大木や、常緑広葉樹が茂る。山北駐車場面や山腹の遊歩道沿いには、タブノキ・クロガネモチの老樹があり、夏にはヤナギイノコズチの群落ができる。この近くの斜面下部にはかつての竹林がわずかに残存し、上部域まではタブノキを一層とし、オガタマノキ・ツブラシイ・サカキなどの老樹が茂る。東向斜面および道路沿いにはタカオカエデの大木やタブノキが目立つ。青年の家より登る取りつき付近はオカメササの群落やツル性植物のマント群落が形成される。頂上をとりまく一帯の陽向地にはワラビ・イワヒメワラビ・ヨウシュヤマゴボウ、樹陰にはヤブラン・ジャノヒゲ・オオバジャノヒゲなどがある。現在、遊歩道の建設が進み、山頂には小牧市歴史館がある。


<小牧市>

 小牧市小松寺字法華寺にある寺。真言宗智山派。山号は愛藤山。本尊は千手観音。文明15年6月付沙門全慶の愛藤山小松寺意趣に、当寺は味岡荘田中郷内にあり、行基が自作の十一面観音像を本尊として開創し、山号は行基が夢に見た季節はずれの藤の花によるとある(小松寺文書/小牧叢書10)。承久3年の承久の乱で廃絶したが、間もなく復興。しかし寺領などは退転したので、全慶の勧進によって本尊仏供と山籠供僧を再興したという。元亀元年の姉川合戦に織田信長へ陣中見舞をしてその返信をうけ、天正7年6月信長から寺領安堵、諸役免許、百姓の他所被官停止の判物を得た。同12年小牧・長久手の戦で焼亡したが、同16年には再建され、同18年寺領178貫文を豊臣秀次から与えられた。江戸期は寺領242石余、塔頭6坊。寺伝などに、承安3年小松内大臣平重盛が伽藍を再建したというのは、寺名による創作であろう。


<小牧市>

 中世の城郭。小牧市堀の内1丁目に所在した山城。国史跡。永禄6年、美濃の斎藤氏を攻略するため織田信長が築城。信長時代の山城の縄張りは未詳だが、小牧山南麓を中心に城下町が展開。天保12年の小牧村絵図から、直交する街路を複数もつ城下町の凝集成が復元できる。永禄10年信長は美濃稲葉山(岐阜)城を攻め落とし、居城を移したため小牧城はいったん廃城となる(信長公記)。天正12年の小牧・長久手の戦では徳川家康・織田信雄連合軍の本城として全山が城郭化されたが、合戦終了後に廃城になった(家忠日記/続大成19)。現在見られる遺構は矛盾なくまとまり、縄張りに時期差が認められないことから、現存遺構は信長時代の曲輪を一部利用したとしても、天正12年の家康の修復でなったものと考えられる。山麓と中腹で二重に横堀を巡らしている。主郭などが一部破壊されてはいるが、山中の遺構はよく残存する。