地名の由来

地名の由来

地名由来伝
 行基が聖武天皇の病気平癒を祈念して3体の仏像を彫刻し石室に安置した時、野鳥が木の実をくわえて宝前に供えたという伝説によるという(浄源寺由緒)。

地名の変遷
 もとは瀬戸市中品野・下品野の各一部。
 昭和40年瀬戸市鳥原町となる。『角川日本地名大辞典』抜粋


 もとは瀬戸市中品野の一部。昭和28年頃開拓された地で、同31~32年に品野町営広之田住宅40戸が建設され、国道沿線には製陶工場、学校、ゴルフ場なども進出。昭和40年広之田町起立。『角川日本地名大辞典』抜粋


地勢
 鳥原川と水野川の合流点付近に位置する。

名所旧跡
 鳥原川の谷には縄文早期の岩屋堂・鳥原遺跡、縄文中期~弥生中期の境井の先史遺跡、森屋敷古墳、中世古窯址群などがある。
 石場川が片草川(水野川)に合流する山崎の丘(通称五輪山)には高さ45~78cmの宝篋印塔が数基あり、戦国期の山崎城址となっている。おがたの井戸と呼ぶ古井も残る。

地名の変遷
 中世には上品野・下品野を含めて科野郷と呼ばれた。江戸期は、尾張国春日井郡中品野村。明治13年東春日井郡に所属。同22年下品野村の大字となる。明治39年品野村、大正13年品野町、昭和34年からは瀬戸市の大字。昭和40年岩屋町・鳥原町・井山町・品野町1~8丁目・中品野町・広之田町となる。

記録
 雨池に広田池・かつケ池・給人池、薪問屋があって、瀬戸物焼の薪や干端薪を売り出し、信州街道に沿った地域では馬宿をしていた。また、棗の木が多く実を名古屋へ売り出した。桃を産し、浄源寺桃ともいい、味がすぐれたという。

寺社
 神社は、八剣神社、八幡神社、八剣神社の境内社に神明社、天神社、源太夫社、八幡社、白山権現社・浅間社、また、八剣社には安政4年銘の馬頭観音板石碑、同5年銘の常夜灯があり、八幡社の境内社に熊野社、神明社、源太夫社。
 寺院は曹洞宗浄源寺、寺山5町2反余を有し、禅宗様の回遊式庭園と桃樹でも有名であった。ほかに岩屋薬師(岩屋堂)・庚申堂があった。岩屋薬師の薬師仏木像は行基の作と伝える。明治期に窯業が興り、富農が窯屋を兼業する半農半工的性格が強かった。『角川日本地名大辞典』抜粋


地勢
 品野川流域の山間部に位置する。

名所旧跡
 城跡に科野城跡・桑下城跡、科野城は土塁・曲輪・堀切跡が残り、永禄元年織田勢と城主松平家重との間に合戦があったことを伝える。

地名の変遷
 中世には中品野・下品野を含めて科野郷と呼ばれた。江戸期は、尾張国春日井郡上品野村。明治13年東春日井郡に所属。同22年東春日井郡の上品野・白岩・片草・上半田川の4ヶ村が合併して上品野村となる。明治22年の旧村名を継承した4大字を編成。大正13年品野町、昭和34年からは瀬戸市の大字。昭和39年瀬戸市上品野町となる。

記録
 「徇行記」によれば、信州岩村街道に沿い人馬の継場で馬持ちは駄賃稼ぎをすものもあった。また、美濃国曽木村・水上村・細野村・猿爪村・大川村などから白炭・鍛冶屋炭が運ばれ、隣郷印場村・大森村あたりから買いにきて名古屋に送られた。明治22年上品野村役場と上品野尋常小学校を上品野の稲荷神社境内に建設。同境内に上品野村創陶碑が建ち、陶磁器工業地発展の基礎を築いたことを記している。明治期以降に盛んになった家内工業的陶磁器生産地であったが、昭和42年からの名古屋学院大学の移転、品野台CCゴルフ場建設、住宅団地造成などにより都市化が進んだ。

寺社
 神社は稲荷神社、稲荷明神、秋葉権現、大物主神、保食神、山神、氏神などを合祀。
 寺院は、曹洞宗祥雲寺、天台宗菩提寺、ほかに庚申堂があった。『角川日本地名大辞典』抜粋


地勢
 庄内川左岸の山間部から品野川流域の山間部にかけて位置する。

地名由来
 狭義には中世の科野郷、広義には江戸期の8ヶ村が統合した東春日井郡品野村(町)をさす。「尾張志」によれば、「品野とは野に高下の品々あるをいふ名」で、田畑が山の中腹にあって階段状になっていることに由来する地名という。

名所旧跡
 中世以降の古窯址群からも瀬戸市・赤津地区と並ぶ陶磁器産地の歴史を持つことがうかがわれ、現在も窯業生産が盛んである。

地名の変遷
 室町期は尾張国春日部郡科野郷。明治39年、東春日井郡下品野村・上品野村・掛川村が合併して品野村成立。合併各村の大字を継承した8大字を編成。大正13年1月1日町制施行、東春日井郡品野町。昭和40年 瀬戸市品野町となる。『角川日本地名大辞典』抜粋


地勢
 品野川最上流域の山間部に位置する。

地名の変遷
 戦国期は、 尾張国春日部郡しら岩郷。江戸期は、 春日井郡白岩村。明治13年東春日井郡に所属。同22年上品野村の大字となる。

記録
 飯田街道の道筋は当村の北の三ケ瀬(坂瀬)坂が急崖となり街道一の難所であったという。『角川日本地名大辞典』抜粋


地勢
 品野川最上流域の山間部に位置する。

名所旧跡
 赤座新兵衛の居城と伝える片草城址がある。

地名の変遷
 戦国期は、 尾張国春日部郡片草。江戸期は春日井郡片草村。明治22年上品野村の大字となる。明治39年品野村、大正13年品野町、昭和34年からは瀬戸市の大字。昭和39年瀬戸市片草町となる。

記録
 村内の三国山は尾張・美濃・三河の国境にあったため、柿野村との間で山境争論があった。上品野村の祥雲寺と柿野村の荘厳寺との間で壇役紛議などがあった。明治23年に開通した通称中馬街道が改修され国道363号となった。『角川日本地名大辞典』抜粋


地勢
 水野川流域、四方を標高200~300mの山に囲まれた小盆地に位置する。

地名の変遷
 古くは水沼と称したという。鎌倉期は、 尾張国山田郡水野郷。水野上・水野中・水野下郷に分かれていた。戦国期天正年間以降は、上水野郷・中水野郷・下水野郷となった。明治22年 上水野・中水野・下水野の3ヶ村が合併して東春日井郡水野村成立。昭和26年瀬戸市の一部となる。昭和34年瀬戸市水野町となる。『角川日本地名大辞典』抜粋


地勢
 庄内川上流左岸に位置する。

地名の変遷
 戦国期は尾張国春日部郡定光寺。昭和39年~現在の瀬戸市定光寺町の町名。もとは瀬戸市沓掛。

寺社
 臨済宗妙心寺派、応夢山定光寺。暦応3年水野致国の外護により平心処斎が開創。

記録
 文明9年の火災、永正7年の地震、天文元年の火災などしばしば災害にあった。
 元和8年5月28日に徳川義直が近辺に遊猟し、寺歴を知って寺領10石を沓掛村のうちで寄付したという。『角川日本地名大辞典』抜粋


地勢
 庄内川左岸の山間部。

名所旧跡
 地域内には半ノ木・月山古窯など、鎌倉期~織豊期の古窯址が数基分布している。

地名の変遷
 戦国期は、 尾張国春日部郡くツかけ。明治13年東春日井郡に所属。同22年掛川村の大字となる。明治39年品野村、大正13年品野町、昭和34年からは瀬戸市の大字。昭和39年瀬戸市定光寺町となる。

寺社
 江戸期、定光寺領・定光寺古領があった。定光寺は建武3年覚源禅師の開基と伝え、妙心寺派中本寺格として七堂伽藍を有した。藩祖徳川義直が遊猟の際などに訪れた縁で、慶安3年彼が没すると廟所が建立され、寛文2年当村と下半田川村に寺領300石を与えられた。『角川日本地名大辞典』抜粋