地名の由来

地名の由来

<小牧市>

 〔近代〕昭和50年~現在の小牧市の町名。もとは小牧市西之島・村中・小牧・間々の各一部。


 <小牧市>

 〔近代〕明治22~39年の東春日井郡の自治体名。矢戸川上流域に位置する。西之島・三淵・三淵原新田・舟津の4ヶ村が合併して成立。西之島・三ツ淵・三ツ淵原新田・舟津の4大字を編成。役場を三ツ淵に設置。明治24年の戸数399、男965・女978、学校1。同27年西之島を境村に編入し、3大字となる。同39年小牧町の一部となり、村制時の3大字は同町の大字に継承。


<小牧市>

 〔近代〕昭和54年~現在の小牧市の町名。1~3丁目がある。もとは小牧市大草・池之内の各一部。昭和37年に計画された桃花台ニュータウンの一画。


<小牧市>

 〔近代〕昭和39年~現在の小牧市の町名。もとは小牧市南外山の一部。


<小牧市>

 〔近代〕昭和59年~現在の小牧市の町名。1~5丁目がある。もとは小牧市小牧・市之久田・間々本町・曙町の各一部。


<小牧市>

地勢
 天台宗賢林寺は鎌倉期以来の寺で集落はその門前にある。矢戸川下流域に位置する。

地名の変遷
 〔中世〕藤島:鎌倉期から見える地名。尾張国春日部郡のうち。国照寺(一宮市大和町)所蔵孔雀文銅磬の銘に「藤島賢林寺勧進僧公明 天福二年甲午二月十五日」とある(小牧市史資料編1)。当地の天台宗賢林寺は一名藤島寺と号し、建永元年、戒深を開山として草創されたという(元亨釈書・本朝新修往生伝)。下って、「信雄分限帳」に「一、参百貫文 藤島郷 上条又八郎」とある。〔近世〕藤島村:江戸期~明治22年の村名。春日井郡のうち。尾張藩領。小牧代官所支配。明治13年西春日井郡に所属。同22年小木村の大字となる。〔近代〕藤島:明治22年~現在の大字名。はじめ小木村、明治33年五条村、同39年北里村、昭和38年からは小牧市の大字。明治39年の戸数89・人口496、大正4年の田40町1反余・畑35町4反余。世帯数・人口は、昭和41年104・514、同49年928・3、498。純農業地帯で蔬菜園芸が盛んであったが、昭和41年から藤島団地、同43年頃からとみづか団地建設により人口が急増。同48年一部が藤島町となる。〔近代〕藤島町:昭和48年~現在の小牧市の町名。もとは藤島・曽野町・熊之庄の各一部。
 村高は、「寛文郷帳」474石余、「天保郷帳」483石余、「旧高旧領」619石余。「寛文覚書」によれば、概高539石余、田17町余・畑24町余、入鹿新田高8石余、野方107町、家数56・人数314、馬11、木津用水が600間にわたって流れる。「徇行記」によれば、給知高は511石余で福尾弥十郎ら給人12、蔵入地27石余、ほかに寛文2年縄入の新田高8石余、延享元年縄入の新田高3石余、同年縄入の徳願地新田5石余が加わり、家数85・人数365、馬9。

寺社
 神社は、天保12年の村絵図には梵天宮。
 寺院は、天台宗賢林寺、ほかに薬師堂・三十番神堂があった。


<小牧市>
 〔近代〕昭和50~62年の小牧市の町名。もと小牧市小牧・小牧原新田・間々原新田の各一部。昭和62年新町1~3丁目となる。


<小牧市>

地勢
 合瀬川中流右岸、境川上流域に位置する。

地名の変遷
 〔近世〕村中原新田村:江戸期~明治22年の村名。尾張国春日井郡のうち。村中新田村・村中原新田とも称した。もと村中村の一部、寛永年間丹羽久兵衛によって開墾され成立。尾張藩領。小牧代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年境村の大字となる。〔近代〕村中原新田:明治22年~大正10年の大字名。はじめ境村、明治39年からは小牧町の大字。明治32年頃から村中と当地で小作料軽減問題が沸き上った。地主の36名は耕地整理によって集約農場化を図ろうと、同42年巾下耕地整理組合を結成。大正7年の人口232。同10年横内と改称。
 村高は、「寛文覚書」166石余、「天保郷帳」187石余、「旧高旧領」村中原新田として186石余。「寛文覚書」によれば、村中村の項目の中に同所原新田として書き上げられ、田14町余・畑4町余、松山3町余、家数16・人数123、馬9、なお、当村の内に丹羽久兵衛に与えられた下田1町余・中田2畝4歩、高にして10石があった。「徇行記」によれば、給知は138石余で織田遠江ら給人4、蔵入地27石余、正保3年縄入の三ケ一新田高4石余、家数39・人数195、馬8。

神社
 神社は八幡社。ほかに庚申堂があった。


<小牧市>

 〔近代〕昭和50年~現在の小牧市の町名。もとは小牧市村中・間々の各一部。昭和50年の世帯数19・人口58。


<小牧市>

地勢
 巾下川中流左岸、合瀬川中流域に位置する。

地名の変遷
 〔近世〕間々原新田村:江戸期~明治22年の村名。尾張国春日井郡のうち。間々入鹿新田・間々原新田・間々入鹿原新田とも称した。もと間々村の一部、同村から分村して成立、なお、分村年代不詳。尾張藩領。小牧代官所支配。明治7年の戸数72・人口308(小牧町史)。同13年東春日井郡に所属。同22年境村の大字となる。
 村高は、「天保郷帳」19石余、「旧高旧領」間々原新田として434石余。「寛文覚書」によれば、間々村の項目の後に同所入鹿原新田として書き上げられ、高265石余、田25町余・畑3町余、見取新田の田畑2反余、新田屋敷山3町余、家数18・人数81、馬4、「徇行記」では、間々入鹿原新田として給知253石余で山村甚左衛門ら給人7、蔵入地12石余、ほかに間々村郷新田10石余、酉新田15石余、子新田51石余、延享元年縄入の後子新田19石余が加わり、家数55・人数213、馬8。

神社
 神社は白山社。