地名の由来

地名の由来

<小牧市>

地勢
 天台宗賢林寺は鎌倉期以来の寺で集落はその門前にある。矢戸川下流域に位置する。

地名の変遷
 〔中世〕藤島:鎌倉期から見える地名。尾張国春日部郡のうち。国照寺(一宮市大和町)所蔵孔雀文銅磬の銘に「藤島賢林寺勧進僧公明 天福二年甲午二月十五日」とある(小牧市史資料編1)。当地の天台宗賢林寺は一名藤島寺と号し、建永元年、戒深を開山として草創されたという(元亨釈書・本朝新修往生伝)。下って、「信雄分限帳」に「一、参百貫文 藤島郷 上条又八郎」とある。〔近世〕藤島村:江戸期~明治22年の村名。春日井郡のうち。尾張藩領。小牧代官所支配。明治13年西春日井郡に所属。同22年小木村の大字となる。〔近代〕藤島:明治22年~現在の大字名。はじめ小木村、明治33年五条村、同39年北里村、昭和38年からは小牧市の大字。明治39年の戸数89・人口496、大正4年の田40町1反余・畑35町4反余。世帯数・人口は、昭和41年104・514、同49年928・3、498。純農業地帯で蔬菜園芸が盛んであったが、昭和41年から藤島団地、同43年頃からとみづか団地建設により人口が急増。同48年一部が藤島町となる。〔近代〕藤島町:昭和48年~現在の小牧市の町名。もとは藤島・曽野町・熊之庄の各一部。
 村高は、「寛文郷帳」474石余、「天保郷帳」483石余、「旧高旧領」619石余。「寛文覚書」によれば、概高539石余、田17町余・畑24町余、入鹿新田高8石余、野方107町、家数56・人数314、馬11、木津用水が600間にわたって流れる。「徇行記」によれば、給知高は511石余で福尾弥十郎ら給人12、蔵入地27石余、ほかに寛文2年縄入の新田高8石余、延享元年縄入の新田高3石余、同年縄入の徳願地新田5石余が加わり、家数85・人数365、馬9。

寺社
 神社は、天保12年の村絵図には梵天宮。
 寺院は、天台宗賢林寺、ほかに薬師堂・三十番神堂があった。