地名の由来

地名の由来

<小牧市>

地勢
 大山川上流域に位置する。

地名の変遷
 〔中世〕田中郷:戦国期に見える郷名。尾張国春日部郡のうち。江戸期の写しではあるが、文明15年5月の小松寺意趣に「尾州春日部之郡味岡愛藤山小松寺<田中郷内>」とある(小松寺文書/県史料叢刊)。また、熊野大社の御師がもつ旅宿があったらしく、同20年2月2日付旦那売券には「右件之旦那者、尾張之国かすかひの郡田中と申在所」と見える(潮崎稜威主文書/大日料8‐26)。天正12年の小牧・長久手の戦では「岩崎山、窪、青塚、田中郷、二重堀まて押詰陣捕候て、悉要害ニ拵」と、羽柴秀吉方が郷内に前線の砦を築き、また徳川家康はその本陣小牧山の北際から北東の方向「田中村未申」にむけ1丈あまりの土居を構築して秀吉と合戦したという(山本正之助氏所蔵文書・小牧陣所之者之咄伝之覚/同前11‐6)。〔近世〕田中村:江戸期~明治初年の村名。春日井郡のうち。同郡内に田中村が2ヶ村あったため、当村を東田中村、他の一村の田中村(現:清洲町)を西田中村とも称した。尾張藩領。小牧代官所支配。明治初年東田中村と改称。
 村高は、「寛文郷帳」784石余、「天保郷帳」では「古者東田中村」と肩書きされて784石余、「旧高旧領」1、265石余。「寛文覚書」によれば、本田の概高1、136石余、田47町余・畑18町余、ほかに概高6石余の新田、見取新田1町余、松山5町余、家数64・人数402、馬24。なお、田中入鹿新田として高92石余、田7町余・畑3町余、家数5・人数30、馬3が当村の項目のあとに書き上げられている。「徇行記」によれば、給知861石余で榊原左源次ら給人23、蔵入地281石余、田中入鹿新田は寛文2年縄入の入鹿出新田55石余、同前の入鹿郷新田37石余とあり、別に書き上げられていな。家数125・人数519、馬14。

寺社
 神社は、明神天王・八幡・山之神。
 寺院は、曹洞宗大照寺(もと心光院)・松林寺(もと自性庵)。