地名の由来

地名の由来

<小牧市・師勝町>

地勢
 尾張平野中央部。条里制の遺構が見られる。

地名の変遷
 〔中世〕熊之荘:室町期~戦国期に見える荘園名。尾張国春日部郡のうち。「建内記」嘉吉元年5月記紙背によると、「万里小路大納言家御領尾張国六師庄<号熊野庄>御代官職」を年貢銭15貫文で尊松丸が請負っていることが見え、六師荘と一体化していたことがわかる(大日古)。戦国期には「六師」と「熊ノ庄」に分離したと考えられ、「信雄分限帳」には「当地百五拾三貫三百文 くまの庄ノ内大炊なハ 同(大津孫左衛門)」をはじめ「熊ノ庄」の表記が6ヶ所見える。〔近世〕熊之庄村:江戸期~明治22年の村名。春日井郡のうち。熊庄・熊ノ庄とも書いた。尾張藩領。小牧代官所支配。明治7年の戸数150・人口602(同前)。同13年西春日井郡に所属。同22年熊之庄村の大字となる。〔近代〕熊之庄村:明治22~39年の西春日井郡の自治体名。熊之庄・薬師寺の2ヶ村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。明治24年の戸数188、男481・女476。同33年薬師寺は五条村薬師寺となり、当村は大字なしとなる。同39年師勝村熊之庄となる。〔近代〕熊之庄:明治22~33年の熊之庄村の大字名。明治33年熊之庄村大字なしの地域となる。①明治39年~現在の大字名。はじめ師勝村、昭和36年からは師勝町の大字。人口は明治9年670、昭和22年1,140、同35年798、同55年7,197。昭和46年一部が小牧市熊之庄となる。②昭和46~49年の小牧市の大字名。昭和48年藤島町、同49年多気西町となる。
 村高は、「寛文郷帳」1,168石余、「天保郷帳」1,189石余、「旧高旧領」1,429石余。「寛文覚書」によれば、本田の概高は1,399石余、田55町余・畑45町余、ほかに入鹿新田高8石余、見取新田5反余があり、家数84・人数588、馬23、名古屋へ3里、小牧へ1里、清洲へ1里半。「徇行記」によれば、給知は1,374石余で給人は冨永左門ら22、蔵入地は本田25石余、ほかに延享元年縄入れの新田21石余があり、家数103・人数413、馬9。なお、寛文2年の検地帳写(師勝町史増補版)では給人20とある。当村の免は、蔵入地は不同免であったが給知は定免が多く、天保年間頃の史料(同前)では給人によって3ツ5分5厘~3ツ7分5厘まであった。また、免は蔵入地より高いのが普通であったが、中には蔵入に2厘安などというのもあった。天保7年の綿布役銀調帳(同前)では、持高1~9石目までが39人で銀9匁7分5厘(1人2分5厘)、10~19石目までが18人で銀9匁(1人5分)、20~49石目までが10人で銀10匁(1人1匁)とあり、14~60歳の婦女に課せられている。

寺社
 神社は、熊野権現(熊野神社)・八幡社・神明社。熊野神社には流鏑馬の神事(おてがら祭)が伝わる。
 寺院は、曹洞宗日光寺・不伝寺・大珠寺(宝珠院)・長岳院。