地名の由来

地名の由来

<小牧市>

地勢
 大山川上流左岸に位置する。

地名の変遷
 〔中世〕大草郷:南北朝期~戦国期に見える郷名。尾張国春日部郡のうち、貞治2年4月日付円覚寺文書目録に「三通 大草郷給主性阿後家申三分一定損申状并百姓連署請状 文和四年十月五日」とあり、当郷は鎌倉円覚寺領であった(円覚寺文書/相州古文書2)。文安元年3月10日付旦那売券写には旦那の在所として「尾州春日之郡篠木三郷并松葉原・大草・シタき・松本」と見え、当郷にも熊野那智の先達が訪れたことが知られる(米良文書/熊野那智大社文書1)。天正12年の小牧・長久手の戦では、同年4月8日付羽柴秀吉書状に「柏井・大草何も取積丈夫之普請申付候」とあって、秀吉方の拠点となった。現在、地内に遺構の残る大草城跡は小規模ながら山城の形式を整えるもので、文安年間に西尾式部道永によって築城され、天文17年頃廃城になったという(小牧市史)。「信雄分限帳」には「病秒 秒苗(一、百五十)貫文 大草郷 勘右衛門なハ内相違 森徳」とある。なお、文明~天正年間の記載のある定光寺祠堂帳には「篠木大草中西」「篠木大草大西」など郷内の地名が記される(定光寺文書/定光寺誌)。〔近世〕大草村:江戸期~明治22年の村名。春日井郡のうち。尾張藩領。水野代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年市制町村制施行により大草村となる。〔近代〕大草村:明治22~39年の東春日井郡の自治体名。大字は編成せず。明治24年の戸数242、男646・女629、学校1。同39年篠岡村大草となる。〔近代〕大草:明治39年~現在の大字名。はじめ篠岡村、昭和30年からは小牧市の大字。昭和34~35年愛知用水篠岡支線による北部の小牧ケ丘の開発が行われた。同37年から桃花台の開発が始められ、同47年には桃花台を通って南西から北東に中央自動車道が開通した。一部が、昭和54年桃ケ丘1~3丁目・古雅1~4丁目・篠岡1~3丁目、同58年光ケ丘1~6丁目・城山1~5丁目となる。
 村高は、「寛文郷帳」1,445石余、「天保郷帳」1,466石余、「旧高旧領」1,890石余。「寛文覚書」によれば、本田の概高1,776石余、田102町余・畑15町余、ほかに概高9石余の新田、家数107・人数773、馬50、松山120町があり、伐木などが禁じられた留山であるが、下草は苅取りを認められて、年貢を山方に出し、池は、太郎池・七重池・疋迫間池・藤助池・深洞上池・同中池・同下池・矢土池・大洞池之9ヶ所、また村東の篠木山5,250町は、篠木33ヶ村の入会山で、下草苅り年貢を山方に出す。善師野宿の助郷村。「徇行記」によれば、給知1,687石余で杉浦七弥ら給人28、蔵入地303石余、新たに延享2年縄入の丑新田高20石余が加わり、家数203・人数799、馬19、池は23ヶ所に増加している。

寺社
 神社は、愛宕・八幡・山之神5、現在は大久佐八幡社のみ。
 寺院は、曹洞宗福厳寺、ほかに薬師堂(現:薬王寺)・観音堂・大日堂・庚申堂があった。福厳寺は曹洞宗の中本寺格として篠木33ヶ村はもとより近国にも多くの末寺を持っていたという(小牧市史)。