地名の由来

地名の由来

<小牧市>

 〔近代〕昭和50~62年の小牧市の町名。もとは小牧市小牧原新田の一部。昭和62年新町1~3丁目となる。


<小牧市>

地勢
 大山川上流左岸に位置する。

地名の変遷
 〔中世〕上すゑ郷:戦国期に見える郷名。尾張国春日部郡のうち。明応8年6月1日付熊野大社旦那売券に「尾帳(張)国かすか井郡上すへ・下すへ」とある(米良文書/熊野那智大社文書2)。「信雄分限帳」には「一、弐百五拾貫文 尾州上すゑ郷内ヲ以 野尻彦太郎 一、百五拾貫文 同郷内 野尻源助」「一、参百貫文<此替知二寺の内 深井分二百貫 上すゑの内又市分>おちや阿」などと見える。〔近世〕上末村:江戸期~明治22年の村名。春日井郡のうち。尾張藩領。水野代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年陶(すえ)村の大字となる。〔近代〕上末:明治22年~現在の大字名。はじめ陶村、明治39年篠岡村、昭和30年からは小牧市の大字。昭和44年三菱重工小牧北工場の用地調印があり、工場が進出し、変貌しつつある。同49年一部が郷西町・長治町となる。
 村高は、「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに1,072石余、「旧高旧領」1,272石余。「寛文覚書」によれば、本田の概高1,212石余、田76町余・畑5町余、ほかに概高2斗余の新田、寛文9年の新田高3石余、入鹿郷新田高32石余、家数47・人数373、馬33、松山2町は留山で、茨坂山・石塚山・鳥屋が根山の松山48町は下草年貢を山方へ納入、池は1ヶ所、小牧宿の助郷村。「徇行記」によれば、給知は84石余で給人都筑氏のみ、蔵入地1,128石余、ほかに寛文2年縄入の入鹿郷新田32石余、同年の三ケ一新田7石余、同9年縄入の酉新田3石余、家数119・人数466、馬12。なお、「寛文覚書」「徇行記」ともに当村のあとに長塚新田の項目を記載している。人家はなく当村の農民の控新田となっていて、高は10石余、田7反余・畑1町余、寛文2年縄入とある。

寺社
 神社は、八幡・山之神4。天保12年の村絵図ではほかに貴船社が見える。寺院は曹洞宗陶昌院。


<小牧市>

 〔近代〕明治22~39年の東春日井郡の自治体名。大山川上流域に位置する。池之内・林の2ヶ村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。明治24年の戸数291、男760・女737、学校1。同39年篠岡村の一部となり、当村の2大字は篠岡村の大字に継承。


<小牧市>

地勢
 合瀬川中流域に位置する。

地名の変遷
 〔近世〕岩崎原新田村:江戸期~明治22年の村名。尾張国春日井郡のうち。岩崎入鹿原新田・岩崎原新田とも称した。もと岩崎村の一部だが、分村年代は不詳。尾張藩領、小牧代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年岩崎村の大字となる。
 村高は、「天保郷帳」138石余、「旧高旧領」岩崎原新田として146石余。「寛文覚書」によれば、岩崎村の一部に入鹿原新田として記載され、高126石余、田12町余・畑1町余、家数9・人数54、馬4とある。「徇行記」によれば、岩崎入鹿原新田として記載され、一円給知で横井牧多ら給人5、家数44・人数184、馬4、村内は中屋敷・北屋敷・与左屋敷などに分かれていた。天保12年の村絵図によれば、村の中央を古木津井筋が流れ、給人5人の田畑が分散していることがわかる、また蔵入地も存在する。

寺社
 神社は、天王社・天道社。寺院は曹洞宗天道寺。


<小牧市>

 〔近代〕明治22~39年の西春日井郡の自治体名。合瀬川中流左岸に位置する。小針巳新田・小針入鹿新田・小針村・市之久田村の4ヶ村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成。小針に役場を設置。明治24年の戸数436、男1,076・女1,072、学校1。同39年北里村の一部となり、当村の4大字は北里村の大字に継承。


<小牧市>

地名の変遷
 〔近世〕江戸期~明治11年の村名。尾張国春日井郡のうち。多気村・大毛村とも書いた。合瀬川中流左岸に位置する。尾張藩領。小牧代官所支配。明治11年多気村の一部となる。
 村高は、「寛文郷帳」712石余、「天保郷帳」732石余、「旧高旧領」1,187石余。「寛文覚書」によれば、概高1,112石余、田41町余・畑17町余、入鹿郷新田高9石余、家数47・人数431、馬11、小牧宿の助郷村、小牧街道道作りと豊場村板橋修理の人足を出した。「徇行記」によれば、給知は275石余で箕形善左衛門ら給人4、本田蔵入地837石余、ほかに三ケ一新田2石余、宝暦6年縄入の新田20石余が加わり、家数103・人数413、馬9。

寺社
 神社は、十二所権現・神明社・熊野権現(多気神社)。
 寺院は、日蓮宗妙禅寺・曹洞宗竜泉院、ほかに薬師堂2。


<小牧市>

地名の変遷
 〔近代〕明治初年~明治11年の新田名。春日井郡のうち。もと市之久田村の一部、大山川中流右岸に位置する。江戸期は市之久田入鹿出新田として「寛文覚書」や「徇行記」に書きあげられ、古くから市之久田村とは別個に扱われていたと思われる。当村の神明社の石灯籠には享保16年・宝暦9年のものがあり「一之久田村出新田」とある。「寛文覚書」には市之久田村の項目の中に入鹿出新田として高52石余、田4町余・畑1町余、百姓屋敷山5町余、家数7・人数39、馬1とある。「徇行記」では、小牧代官所支配、一ノ久田入鹿出新田として一円給知とあり、給人関氏42石余・同小久保氏10石余となっている。明治11年市之久田村の一部となる。

神社
 神社は神明社。同社の境内には小牧城外堀の土塁が残る。


<小牧市>

地勢
 境川中流域に位置する。字鳥貝塚から石鏃が出土し、字牛屋に古墳があったとされるので(小牧市史)、古代に集落が形成されていたと推定できる。中世には原野が多くなった。

地名の変遷
 〔近世〕入鹿出新田村:江戸期~明治22年の村名。尾張国春日井郡のうち。北外山入鹿出新田・入鹿出新田とも称した。尾張藩領。小牧代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年境村の大字となる。〔近代〕入鹿出新田:明治22年~現在の大字名。はじめ境村、明治39年小牧町、昭和30年からは小牧市の大字。大正13年の戸数107・人口585、同15年の田59町3反余・畑22町1反余(小牧町史)。大正初期耕地整理が実施された。
 村高は、「天保郷帳」366石余、「旧高旧領」入鹿出新田として377石余。「寛文覚書」には、北外山村の項目の中に北外山入鹿新田とともに、同所入鹿出新田として記載されているが、地理的には相当な隔たりがある。同書によれば、高366石余、田31町余・畑9町余、屋敷付野方5町余、家数32・人数173、馬19。「徇行記」によれば、北外山入鹿出新田として北外山村とは別個に書き上げられ、寛永10年入鹿池之造成によって入鹿村は池之底に沈んだが、同村から当村に9人の百姓が移住して名が付いたといい、家数66・人数271、馬8。

寺社
 神社は、神明・白山。寺院は、曹洞宗円昌寺。


<小牧市>

 〔近代〕昭和50~62年の小牧市の町名。もとは小牧市小牧・小牧原新田の各一部。昭和62年新町1~3丁目となる。


<小牧市>

地勢
 合瀬川中流域に位置する。天正12年の小牧・長久手の戦では羽柴秀吉が「岩崎山」に砦を築き、徳川家康方と合戦したという(山本正之助氏所蔵文書/大日料11‐6)。

地名の変遷
 〔近世〕岩崎村:江戸期~明治22年の村名。尾張国春日井郡のうち。当村から岩崎原新田村が分村、なお分村年代は不詳。尾張藩領。小牧代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年岩崎村の大字となる。〔近代〕岩崎村:明治22~39年の東春日井郡の自治体名。岩崎・岩崎原新田の2ヶ村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。明治24年の戸数230、男521・女499、学校1。同39年味岡村の一部となり、当村の2大字は味岡村の大字に継承。〔近代〕岩崎:明治22年~現在の大字名。はじめ岩崎村、明治39年味岡村、昭和30年からは小牧市の大字。明治39年味岡村の役場が置かれたが、昭和14年現在の味岡支所の地へ移転。同38年県営岩崎団地、また南岩崎台団地が建設され、人口が激増した。同54年一部が久保新町となる。
 村高は、「寛文郷帳」655石余、「天保郷帳」664石余、「旧高旧領」842石余。「寛文覚書」によれば、概高732石余、田41町余・畑14町余、ほかに新田概高6斗余、入鹿郷新田73石余、田6町余・畑1町余、見取新田の田畑3町余、木津用水懸り。枝郷に町屋があり、街道に沿い商売する者もいた。家数69・人数428、馬35。岩崎山は藩の留山で、ここから名古屋城築城や修理のために花崗岩が切り出された。「徇行記」によれば、給知495石余で成瀬織部ら給人8、蔵入地237石余、享保11年縄入の新田高8石余・田1町余、同年縄入の岩崎原午新田高12石余・田畑2町余、家数126・人数534、馬6。村内には新木津用水が380間、古木津用水が524間かかり、また小牧街道440間分の道路修理人足を出し、善師野宿の寄付人馬を出した。

寺社
 神社は権現社。寺院は、曹洞宗杲洞寺、ほかに観音堂。