地名の由来

地名の由来

地勢
 庄内川の右岸に位置し、北隣の外之原村から流れる鯎川と玉野川(庄内川)との合流点にあり、南の玉野川北岸地域に田畑や集落が発達している。集落の南に玉野川の渡し場があった。中央部に鯎川が流れる。

地名の由来伝
 往昔、庄内川の流れが玉の如き清流であったことからとも、周囲に緑の山がありその間に平野があることからともいう。

地名の変遷
 南北朝期~戦国期は尾張国春日部郡篠木荘玉野郷。江戸期は春日井郡玉野村。明治13年東春日井郡に所属。同22年玉川村の大字となる。昭和33年からは春日井市の大字。昭和34年1月1日玉野町となる。

寺社
 五社神社・御岳神社、臨済宗太平寺。五社神社の祭礼には馬の塔、棒の手が行われ、文政11年の検藤流の免許1巻などが残る。夏祭りには文政年間頃のからくり人形をもつ山車が練る。

記録
 雨池は釜ケ池・山神洞池・鹿ケたいら上池・同下池から鮎の運上銀を出した。昭和40年代に高蔵寺ニュータウンの開発が始まるとともに道路などが整備され、次第に宅地化が進行した。


地勢
 矢田川左岸に位置する。

地名の変遷
 戦国期は尾張国春日部郡矢田。江戸期は春日井郡矢田村。明治13年から西春日井郡に所属。明治22年六郷村の大字矢田となる。大正10年名古屋市東区矢田町となる。一部が昭和18年大幸町、同21年北区矢田町、同54年東区矢田南1~5丁目・古出来2~3丁目・出来町3丁目、同55年東区萱場2丁目、同59年東区大幸南1~2丁目、同62年東区矢田東となる。昭和21年~現在の名古屋市北区の町名となる。

寺社
 寺院は臨済宗漸東寺。神社は六社大明神・白山社・神明社。

記録
 矢田川の南岸、名古屋城下と瀬戸を結ぶ瀬戸街道沿いに集落が発達。街道を挟んで東に東島、西には中島・西島と3つの集落があった。用水は大曽根村と共同で大幸村内からとり入れていた。元禄年間の洪水による矢田川の氾濫によって沿岸村々の村域に発生していた飛地などを、明治10年整理。このため長母寺を含め、矢田川の南岸は守山村から矢田村となる。


地勢
 庄内川左岸に位置する。

地名由来伝
 地名は桔梗を村民がキッコと呼びならわしたことから、誤って吉根と書くようになったというが(地名考)、不詳。

名所旧跡
 観音寺の寺跡、八幡社の本宮も庄内川近くにある。

地名の変遷
 戦国期は尾張国春日部郡吉根。江戸期は日井郡吉根村。同22年志談村の大字となる。
 明治39年志段味村、昭和29年守山市、同38年からは名古屋市守山区の大字。

寺社
 神社は八幡・神明・山神。寺院は天台宗竜泉寺、曹洞宗観音寺(天明8年再興)。

記録
 南のはずれ、丘陵が庄内川にせまる断崖上に天台宗竜泉寺がある。延暦年間最澄の開創と伝える。集落はかつて庄内川近くの低地にあったらしい。現在水田となっている所に、旧家の元屋敷といわれる所が各所にある。観音寺の寺跡、八幡社の本宮も庄内川近くにある。いずれも明和4年の洪水をはじめ、たび重なる水害を逃れて、順次高所に移ったものという。「寛文覚書」によれば、雨池6ヶ所(柳洞池・本持沢池・武兵池・濁池・釜池上下・北洞池)、があり、用水は雨池かかりであった。「徇行記」によれば、「民戸ハ其道(名古屋道)ヨリ東又ハ北ヘ附五六ケ所ニ散在ス……水害ニ遭シヨリ土ヲ砂入地ヘクリカヘシナトシ・・」、支村には下島・山ノ手島・菩提島・元屋敷・下郷島があった(徇行記)。明治8年神明山の下にトンネルを掘り、庄内川から取水しようとする神明用水の工事に着工、翌9年完成(守山市史)。第2次大戦後は農業離れが進み、兼業化が著しい。グリンビュー・名楽苑・県営吉根住宅などの住宅団地も造られ、宅地化が進む。『角川日本地名大辞典』抜粋


地勢
 庄内川左岸。

地名の変遷
 江戸期は尾張国春日井郡下志段味村。明治22年志談村の大字となる。明治39年志段味村、昭和29年守山市、同38年からは名古屋市守山区の大字。

寺社
 小字名に東禅寺・真光寺の名があるが、現在寺はない。神社は八幡社・山之神。

記録
 古くは本田・新田ともに出水かかりであったが、享保7年上志段味寺裏地内の庄内川に伏越樋管を設け、次に中志段味地内庄内川から取水して本田を灌漑した(守山市史)。また、新田用水のために雨池も造られた。「徇行記」によれば「玉野川ノ東ニ農屋建ナラヒ一村立ノ所ニテ竹木ヨク茂レリ」。明和4年の洪水で玉野川が決壊し、高180石余が砂入地となったという。支村にカラス島・池田島・幸原島がある(徇行記)。
 明治40年、尚善養蚕組合設立。養蚕はその後益々盛んになるが、戦争の激化に伴い食糧増産のため衰え、第2次大戦後は兼業化が進んだ。昭和35年品川白煉瓦守山工場誘致。『角川日本地名大辞典』抜粋


地勢
 庄内川左岸。

名所旧跡
 古墳時代から室町期の集落遺跡である天白・元屋敷遺跡と湿ケ遺跡がある。

地名の変遷
 江戸期は尾張国春日井郡中志段味村。以降上志段味村と同じ。

寺社
 神社は諏訪大明神・熊野権現社・天王社・山神社。

記録
 松山36町があり、山からの猪や鹿を防ぐために750間の鹿垣土居が築かれていた。「徇行記」によれば、「下志段味村ヨリツゝキ四区ニ分ル、江端島・郷島・山島・寺林島ト云」、雨池が13ヶ所あった。地内南部の平原は諏訪ノ原といい、大森村へ出る山道があった。寛政4年の村絵図では沖積地に集落や村社が見えるが、庄内川の氾濫のため、のち段丘上へ移転する。
 明治41年諏訪原新田共済会発足。副業として諏訪原新田養蚕組合による生糸生産がある(守山市史)。昭和49年県立守山高校開校。『角川日本地名大辞典』抜粋


地勢
 庄内川左岸。

地名由来伝
 志段味の地名は、尾張山(東谷山)の峰からしたたる水の幅広く落ちる所からきているといわれる(地名考)。

名所旧跡
 旧石器・縄文・弥生、古墳~室町の各時代の遺跡や遺物包含地、国史跡で県内最古の時期に属する白鳥塚古墳や東谷山古墳群などがある。

地名の変遷
 江戸期は尾張国春日井郡上志段味村。明治22年志談村の大字となる。明治25年、分離独立して上志段味村となる。明治39年、志段味村上志段味となる。昭和29年守山市、同38年からは名古屋市守山区の大字。

寺社
 神社は勝手明神・八剣大明神・山神の3社。勝手明神は南朝の遺民が乱を避けて当村に移り住み、吉野の勝手明神を勧請したものという(張州府志)。
 寺院は曹洞宗久岑寺。ほかに庚申堂がある。

記録
 雨池4ヶ所(大くて池・馬船池・新池・白鳥池)があり、また、山からの猪や鹿を防ぐために960間の鹿垣土居が築かれていた。「徇行記」によれば、地内集落は河原島・上ノ島・羽島・中屋敷・樹木屋敷に分かれている。天保15年の村絵図を見ると、寺社・集落は沖積地にあるが、こののち庄内川の氾濫を避けて現在地に移転することになる(守山市史)。昭和20年東谷山開拓村ができ、養鶏やブドウの生産にあたる。昭和55年東谷山フルーツパーク開園。『角川日本地名大辞典』抜粋


 矢田川中流右岸に位置する。地名は3ヶ村が合併して成立したことによる。中世の城址が残る。

〔近代〕三郷村
 明治11~22年の村名。はじめ春日井郡、明治13年からは東春日井郡のうち。井田・瀬戸川・狩宿の3ヶ村が合併して成立。明治22年八白村の大字となる。

〔近代〕三郷
 明治22年~昭和46年の大字名。はじめ八白村、明治39年旭村、昭和23年旭町、同45年からは尾張旭市の大字。農業地域であったが、昭和10年以降、陶磁器関連工業をはじめ工場の進出が著しく、人口増加。また、昭和30年代を中心に工業地化・住宅地化が進行し、人口はさらに倍増した。同45年三郷町・瀬戸川町・井田町、同46年狩宿町となる。

〔近代〕三郷町
 昭和45年~現在の尾張旭市の町名。もとは三郷の一部。瀬戸街道沿いを中心として市街地化の著しい地域。昭和50年東部老人いこいの家開館。同55年の世帯数603・人口2,210。一部が同年東栄町、同60・61年東三郷町・狩宿新町・瀬戸川町となる。


地勢
 矢田川中流右岸、天神川流域に位置する。

地名の由来
 地名は水野良春が新しく居を構えたことによるという(地名考)。荒井・新井とも書く(尾張志)。

名所旧跡
 良春の居館址、水野氏ゆかりの寺社・城跡がある。

地名の変遷
 戦国期は尾張国春日井郡新居郷。江戸期は春日井郡新居村。明治13年、東春日井郡に所属。同22年市制町村制施行により東春日井郡新居村となる。大字は編成せず。明治39年、旭村大字新居となる。昭和23年旭町、同45年からは尾張旭市の大字(旭村、旭町の役場が置かれた)。一部が昭和45・46・48・55年に南原山町・東栄町・大久手町・旭ケ丘町・北原山町・新居町・東大道町・西大道町・城前町・城山町・旭前町・平子町・柏井町・旭台・東大久手町となる。新居町は、旧)新居村の本郷を中心とした地域。

寺社
 神社は、多度大明神(現:多度神社)・明神・権現・天道・白山・諏訪明神・山之神(これらはのち明治44年多度神社に合祀された)。
 寺院は、臨済宗退養寺(東寺)・洞光院(西寺)、なお、「尾張志」によれば道浄寺があったといい、ほかに薬師堂・庚申堂があった。

記録
 「徇行記」によれば、池は平池・濁池・山田池・今池・山田下池・一斗ケ池・長池3ヶ所・藤池・ヨクケ迫間池・大久手池。今池の近くの館跡は御殿と呼ばれ、藩主の狩猟の際の仮殿があった。明治6年魁昇学校設立(同9年新葉学校、同18年新居学校)。明治39年鉄道開通で、聾石、新居、平池の3駅を開設。昭和10年代を中心に陶磁器業関係の工場立地が目立ち、同30年代以降は名古屋市のベッドタウン化が強まった。昭和20年代にかけて小学校・中学校の統廃合や開校が行われた。昭和47年あたご保育園開園。同58年名古屋女子商科短期大学開校。


地勢
 矢田川中流域。

地名由来
 天武天皇5年新嘗祭のための斎忌斎田に定められたことに由来し、斎庭から斎場、印庭、印場と転訛したという。

名所旧跡
 「延喜式」神名帳に見える式内社渋川神社をはじめ、須恵器古窯群・古墳・条里遺構、中世の城址などが点在する。

地名の変遷
 室町期から戦国期は、尾張国春日部郡印場。印庭・陰葉とも書く。江戸期は、春日井郡印場村。明治13年東春日井郡に所属。同22年市制町村制施行により東春日井郡印場村印場村となる。大字は編成せず。同39年旭村印場となる。昭和23年旭町、同45年からは尾張旭市の大字。昭和45年庄中町・東印場町・印場元町、同46年霞ケ丘町・桜ケ丘町、同53年東山町・西山町・庄南町・大塚町・吉岡町となり、同54年庄南町に編入。

寺社
 神社は、式内社渋川神社(蘇父川天神)・八竜社(高糟神社)・直会神社・山神社。
 寺院は臨済宗良福寺、ほかに薬師堂・毘沙門堂・庚申堂・観音堂があった。

記録
 「徇行記」によれば、用水は宮崎用水・野田用水・舟橋用水を利用、池は大水口洞池・大水口洞上池・狐洞池・虫ノ池・虫ノ上池・線迫間池・ナンマ川池・北山ノ内鞍骨池。当村は水害が多く、明和4年の田畑川欠書上帳では、「砂深ニて地並難成分」などとして62石余の砂入高が書き上げられている(尾張旭市誌)。また、下流の大森村とは、たびたび水論を起こしているが当村は譲らなかったという(同前)。明治6年、良福寺に渋川学校設立、同9年斎場学校と改称。同38年瀬戸自動鉄道が開通し、停車場が開設された。昭和10年代から住宅地化が始まり、同30年代から名古屋市のベッドタウン化が進行。印場尋常小学校は明治39年旭第四尋常小学校となり、大正8年旭第三実業補習学校を付設、同14年旭渋川小学校と改称。


地勢
 矢田川中流域に位置する。

地名由来
 地名は、天武天皇5年の新嘗祭に斎忌(斎庭)の稲穂を一之御前神社に積んだことから稲庭と称し、のち転訛したもの。

名所旧跡
 白山古墳・古石塔・陶片散布地がみられる。天正12年4月、小牧・長久手の戦の時、徳川方は「其勢四千五百騎ニテ、稲場口江被遣」と、この軍勢はまず当地に遣わされたという(小牧御陳長湫御合戦記/大日料11‐6)。

地名の変遷
 戦国期は尾張国春日部郡稲葉。江戸期は春日井郡稲葉村。明治13年東春日井郡に所属。明治22年八白村の大字となる。明治39年旭村、昭和23年からは旭町の大字。昭和45年~現在の尾張旭市の町名。昭和20年旭町本地ケ原、昭和45年尾張旭市西の野町・稲葉町・北山町・下井町・長坂町・上の山町・井田町となる。昭和57年北山町・西の野町と境界変更。

寺社
 神社は、氏神の一之御前社、ほかに山神3・白山・西之宮神・洲原大明神・八幡・県神・神明があったが、のち明治44年一之御前社に合祀。
 寺院は、臨済宗少林寺。

記録
 「徇行記」によれば池は、あなた池上池・あなた池下池・神田池上池・神田池下池、用水は瀬戸川用水を利用、狩宿村の井田村杁より引かれた水は井田村を通り当村に送られた。明治18年、稲葉学校開設。明治39年稲葉小学校は旭第二尋常小学校となるが、同41年新居に移転。昭和46年、第一学校給食調理場完成。同52年稲葉保育園開園。同55年コミュニティセンター宮浦会館完成。『角川日本地名大辞典』抜粋